イナゴだったんだなあ

2020年がなんやかんや言って結構旬ジャンルを渡り歩いた一年だったので、まさか自分にイナゴの才能があるとは思わずなんとも言えない気持ちになっている。自分ってイナゴだったんだなあ……

 

どのジャンルにいてもおおよそ思うことは一緒で、食らいつくタイプの二次創作は向いてない(というか二次創作自体向いてない)な、とかまた学級会やってんな、とか、本当にインターネット上で自我を晒すオタクに向いていないし、向いているオタクと波長も合わないな、といったことばかり考えていたような気がする。

 

自分がイナゴであるという自我の芽生えのきっかけになったのが新しいジャンルに手を出した時に発生する「前ジャンル」の推しへと向ける感情の推移だった。長い夢から覚めたような、突然頬を引っ叩かれたような、とにかく、冷めるまでが急速だったのだ。これまでその推しくんに惜しげもなくかけてきた時間(と金額)は一体なんだったんだろう、と一番考えてはいけないことをジャンルの新規開拓のたびに考えている。決して嫌いになったわけではないけれど、もう自発的に彼の絵を描くことはないんだろうなとどこかで思っているような、つまり「その程度」の感情にまで落ちてしまったという事実が、毎回結構自分を驚かせる。本当に突然なのだ。毎回。

 

ちょっと前までは半年後に自分がズブズブになっているジャンルも間違いなく今と変わらない、と胸を張って言えたのに今や来週のジャンルすらわからない。熱しやすく冷めやすいと言えば聞こえはいいが、それだけジャンルにかける熱意みたいなものも年々ショボくなっているんだろうなあと思った。

 

このままオタクやめられないかな

ニコ動の殿堂入りばっかり聴いてる

既存の手段でお気持ちを伝えるって正直めちゃくちゃ陳腐なくせにやけにハードルが高いなと思う。誰もが知っている手段ならそれなりのクオリティに仕上げないと見向きもされないっていうのはなかなかしんどいものがある。

 

ボカロが最近そんな感じだなあとぼんやり感じている。ボカロ黎明期の作品、調教とかMVとかかなり荒削りだけど新しい表現手段を得た人間の高揚感みたいなのを感じる。

それはそうとボーカロイドたちへの偏見が昔よりもなくなってきているのはうれしい。そろそろお昼の放送でボカロ禁止!みたいな謎ルールもなくなっていくんだろうなあ。

 

中学生の頃とかはその『新しい表現手段』ってのを作る側に立ってやる、と息巻いてたのがいつの間にか既存の手段に落ち着いている。そういえば最近何かを作っていないと焦燥感でおかしくなりそうっていう感覚とも縁遠くなってきているな。

 

これは成長による落ち着きではなく完全に劣化だと反省している。

中立ヅラしてると楽

Twitter上でオタクをまあまあ長いことやっていると『学級会』なるものに出くわすことが何度かある。というかここ最近は同じジャンル内でザラに月に数回勃発しているように思う。

学級会と揶揄されているくらいなので議論内容は非常にくだらない。公式のイラストを無断転載するなだの公式タグと二次創作タグを併用するなだのコスプレを指定の場所以外でするなだのアニメイトで暴力を振るうなだの、いい歳した大人ならちょっと考えればどう振る舞うべきか分かるであろう行動についてあっちこっちで注意喚起が出回っている。ここは小学校か?

 

学級会に関してはまあ当然いちばん悪いのはわざわざ良識のあるオタクにこんなおバカな注意喚起をさせた上にそれでもなお「表現の自由」「個人の責任」等々これまたおバカが反論しようとする時にほぼ必ずと言っていいほど持ってくるワードを引っさげて対抗しようとする輩なのだが、それに乗せられてヒートアップする本来『正しいこと』を言っているはずの人達もそれはそれでちょっと落ち着いてほしいなと思うところではある。(主に二次創作に関するあれそれがどうして表現の自由や個人の責任で片付けられないのかが分からないオタクくんたちは今すぐこのブログを閉じて半年ROMっていただきたい。)

 

単なる注意喚起に留まらず特定のアカウントに対して晒すような行為をしたり粘着したり、とここまでくると界隈の民度を保つための学級会が界隈の民度を落としてるじゃあないか、と思うのだ。

というか、言ってしまうと何だがおそらく既に何かやらかしている人達は学級会でみんなこういうところに気をつけようねと提起されている内容なんか見ていないし、むしろタチの悪い輩は学級会が盛り上がれば盛り上がるほど喜んでしまうのではないかなと思うのだ。具体的にどことは言わないが某2.5次元舞台界隈は炎上元がそれを利用して金稼ぎをしているようだし。

 

もちろん、ある程度の注意喚起は界隈の自浄を促してくれると思う。インターネットをはじめたての小中学生なんかにとっては特にジャンルごとに微妙に違ってくる規約を噛み砕いて説明してくれたり『お約束』について教えてくれる存在としてありがたいだろう。

無知とは怖いもので、オタクくんが親の仇より大嫌いな無断転載や我が物顔の無断トレスなんかも言われなければそれが『悪』であることに気付かない層が一定数存在する。私もインターネットはじめたて中学生の頃LINEのアイコンを誰が描いたかもわからん拾い画にしてたな……

 

で、である。ある程度色んなジャンルの学級会に触れてきた立場としては学級会、正直もういいなというのが率直な感想だ。

しかしまあどのジャンルにいれどやらかしてしまうオタクくんはどうしても出てきてしまうので学級会は勃発するし、その学級会の内容がおかしいんじゃないかという学級会まで出てくる始末だ。けれど、別にわざわざ〇〇さんの意見に賛成です!なぜなら…… をやらなくてもいいじゃん、と気付いた。本物の学級会ではないので中立ヅラができる。黙っていればいいのだ。傍観者ともいう。

 

傍観していれば案外どっちもどっちなところが見えてきたりする。多分ひっそりと注意するかそのまま無視するかしていればそこまで大事(おおごと)にならなくなかったか?といったような1人のやらかしをまるで鬼の首を取ったかのように晒しあげザワつかせたり、真っ当なことを言っているようでよくよく見てみるとかなり独自の理論でモノを言っていたりと、そりゃ学級会もなくならないワケだ、とストンと合点がいってしまう。

 

とはいえ、学級会が全く起こっていない一見『平和』なジャンルはオタクが内々で問題提起した人間を揉み消しいじめ倒しジャンルから追い出し学級会自体なかったことにしている、なんていう恐ろしい話も聞く。皮肉な話だが学級会があっちこっちで起こるということはそれだけオタク同士の繋がりが希薄でそれぞれが好きなようにオタクライフを楽しんでいると言えなくもない。個人的にはもう少し静かになってくれるとありがたいのだが。

おだやか

創作をする人間には大きく分けて二つのタイプがいると思っている。メンタルと環境が整った状態で創作が捗るタイプと、メンタルが荒れていてなおかつ何か他のものに追われている(課題や仕事の〆切等)時ほど創作が捗るタイプだ。

残念ながら私は後者である。

 

そのため、受験期は現実逃避の手段として非常にその力を借りた。元々目指していたのが美術系の大学というのも手伝って、絵を描くという行為にあまり罪悪感を感じずに入試ギリギリまで創作活動に勤しんでいた。今考えたらあの時二次創作から足を洗う最大のチャンスを失ったのかもしれない。

 

メンタルが荒れている時ほど創作が捗るのはおそらくおだやかな心持ちの時は創作よりも溜まっているアニメの消化だったり散歩だったりと自分の中で能動的な趣味とされるものを優先するからだろう。一般に創作活動も能動的な趣味であるはずなのだが、布団から一歩も出ずに成立するからであろうか、私の中ではあまりアクティブなイメージのない趣味としてカウントされている。(なので、もし私の部屋に録画機能のついたテレビを設置したら溜まったアニメの消化も布団から一歩も動かずに成立する趣味となるため、アニメを見るという行為の圧倒的消費エネルギーの少なさから創作をする頻度は今よりもかなり低くなるんだろうなあと思っている)

あとは単純に創作のネタが降りてこない。

私には圧倒的画力で魅せるという術がないため、テーマや物語を含ませたいわゆる雰囲気絵を描いているのだが、私が創作の題材にするようなキャラクターの大概が刹那的な人生をそうと知りながら享楽していたり自堕落に生きていたりとどこか鬱々とした面を持ち合わせているため、おだやかなメンタルで彼らを描こうとすると高確率でセルフ解釈違いを起こすのだ。

 

課題や仕事に追われている時ほど創作が捗るのは、現実逃避という面もあるがそのタイミングで絵を描き上げることでひとつタスクを達成したと勘違いし手軽に満足感を得られるからだろう。

完全に悪癖である。

はやりのもの

私は流行しているコンテンツに乗るのがあまり得意ではない。アニメや漫画などの"旬ジャンル"と、なんとなく距離を置こうとしてしまう。(現在メインでハマっているジャンルのことを考えるとあくまで原則ではあるが)

自分の好きなものが話題になるのをなんとなく気恥ずかしく感じるのもあるし、趣味を通した交流をしようとしたときにファンの母数が多いとそれだけ苦手なタイプの人間と出会う確率が高くなるというのもある。

言い方は悪いがオワコンが好きだ。開拓され尽くし供給も途絶えたジャンルはリアルタイムで追いかけなければならないものが特にないため、自分のペースでゆっくりと作品理解を深めることができる。

旬のジャンルだと目まぐるしく更新される情報の洪水を受け止めるのが精一杯でなかなか腰を据えて作品を見つめるというのができなくなってしまう(あくまで私は、の話である)。

 

結局何が言いたいかというと、少し今の状態に疲れてしまっている。

本来嬉しいものであるはずの公式からの供給があまりにも私にとって多すぎるためにそれらを網羅するのがどこか義務のように感じてしまい、「義務」を果たしたあとはTwitter上で繰り広げられる感想やファンアートの早出し合戦をぼんやりと眺め、少しのタイムラグを置いて自分も大してまだ煮詰め切っていない考察から絞り出した二次創作を投稿する、というのが毎回の一連の作業のようになってきている。

 

インプット・アウトプットの早い人にとっては旬のジャンルというのはその属性なんかが自分の趣味と合致していれば肌に合う上に同じ話題を共有できる人口が多くかなり楽しいものなのであろうが、何ヶ月も(ときには年単位で)ひとりのキャラや一部のストーリーを切り取ってネチネチと考察をするタイプである私にはあまりにも急流すぎるなあ、と時々思うのだ。現に未だに現ジャンルの推しの解釈がブレにブレる。それも新しく出る情報からではなく既出の情報を整理した結果、である。

 

二次創作の規模が大きいというのも疲れるポイントのひとつではあるのだと思う。フォロワーを多く抱えたファンの発言が準公式のようにもてはやされるのを眺めたりそれをもとに解釈の「答え合わせ」をすることや、常に何か創作や考察をしてかじりついていないと置いていかれたような感覚になることに違和感を覚えている。何ヶ月もじっくりキャラの考察を練っている間に界隈のトレンドは全く違うところに移行し、モノによっては「これは〇〇の情報が出る以前の創作である」と注意書きをしなくてはいけなくなってくる。あらゆる地雷に配慮した注意書きにはかなり好意的なのだが、なんだかなあとも思う。

簡単に言ってしまえば、もうこれ以上進展のない状態、要は完成品が用意されている作品を端から端まで解読し考察するのが好きというか性に合っているのだろうなと思う。本家の絶対的な答えが前提として存在しており、我々受け取り手はストーリーに存在する余白に思いを馳せるといったある種の主従関係というか、公式とファンとの力関係がハッキリとしている作品が好きだ。

 

ここまでまるで現ジャンルに不満があるようなネガティブな文章ばかり書いてきたが、何を隠そう好きだから降りずに食いついているのである。脚本やキャラクターに若干の破綻はあるものの、なんだかんだそれも込みで結構好きなのだ。

ただ、オワコンの解釈をひとりでネチネチ煮詰めている時よりもストレスを感じる機会が圧倒的に多いので、自分の精神衛生のためにもなんとか旬ジャンルとうまく付き合える方法を探さなければなあ、と思っている。

承認欲求の話

日記は一日一回、その日の「まとめ」を書くものだとは思うのだが、紙媒体で日記をつけていた頃から思いついたときに思いついたことを書き殴っていた。ので、故に、の連投である。Twitterにリンクを投稿した時のサムネの確認も兼ねていると言い訳だけしておく。

 

今回は承認欲求の話だ。端的に、まあまあ強くて困っている。というかプライドの高さと求める評価が実力に見合っていないなあと思っている。

 

主に承認欲求を満たす場としているのがTwitterに投稿する二次創作なのであるが、これまでいたジャンルと比べて現在活動拠点としているジャンルは規模が大きい上に現在進行形で進んでおり、活気がダンチである。当然ファンも多い。石を投げれば同ジャンルのオタクに当たると言ってもまあ過言ではないだろう。

 

これが私の承認欲求に火をつけてしまった。

 

 

ジャンルの規模が大きいので絵のクオリティが大したことのないものでもある程度拡散されてしまい、しかし今のところありがたいことに目に入るのは肯定的な感想ばかりである。これを繰り返していくうちにだんだんと感覚が麻痺し、自分はもしかしたら絵がメチャメチャ上手いのではないかと思い上がり、じゃあどうしていいねがこれっぽっち(失礼)なんだ、と頭を掻き毟る羽目になる。実力に見合っていないプライドの育ち方をしたせいでセルフ引用リツイートや時間差でのコメントなどでなんとかしてできるだけ多くのフォロワーに見てもらおうとする工作も苦手である。(そんなことをしなくてもいいねがたくさんもらえると思い込んでいるため)

こうやって悩みながらも非常に調子に乗ってくると、どこかで他者への攻撃的な部分が出てきてしまう。有り体に言ってしまえば自分よりも閲覧数のはるかに多いネタ絵師やタグ絵師たちなどへのヘイト的な感情である。あえて詳しくは述べないが、到底インターネットに向いている人間からは発せられることのないような罵詈雑言が脳内で飛び交うようになる。

 

冷静に、かつ客観的に考えれば大勢に受け入れられるようなネタを思いつく(またはどこかから引用してくる)人間やキャラクター性のデフォルメなどによるいわゆるお約束を楽しめる人間、また多くの人に見てもらおうとありとあらゆる手段を尽くした人間の作品が大してうまくもないクセにサブカル気取ってできるだけ少ない文字情報量でイラストを投稿してみたり全く人のいない時間帯にひっそりイラストを投稿してみたりしている人間よりも評価されるのは当然である。この文章もさも自分が客観的なモノの見方ができるように装っているがその実悔しさから奥歯を噛み砕きながら書いている。

 

承認欲求自体はあっても別におかしなことだとは思わない。褒められたらうれしいじゃん、ってなモンである。褒められるために何かを作るというのもまあひとつの形としてアリだとは思う。私自身インターネットに触れるまでずっと基本的にひとりで閉じこもってコソコソネチネチシコシコと二次創作をしていたものをインターネットに投稿するというのを覚えた途端リアルタイムで反応が返ってくるのが面白くなりズルズルと続けてきてしまっているクチであるため、どこか他人の反応を見るために二次創作をしている面があるのも否めない。

ただ、Twitterで二次創作をするオタクをしていれば一度は見たことがあるであろう白ハゲお気持ち漫画のように承認欲求の強さの正当化と己の作品への評価の半強要だけはしたくないなあとは思っている。他者からの評価がその他のすべてを差し置いて最前面に出てきてしまったならそれはもう一旦創作から距離を置くべきだろうというのが持論である。

 

 

あーあ、寝て起きたら突然まっすぐきれいに線が引けるようになったりめちゃくちゃ面白いと自他ともに思えるようなストーリーが次から次へと思い浮かぶようになってないかなあ、と思うばかりだ。

お気持ち表明について

新型コロナウイルスによる外出自粛で、学生でありかつそこまで生活に密着していない職種のアルバイトをしている私は学校もバイト先も早々に通常運転を中止しており、完全にひきこもりと言っていい状態で1ヶ月ほど過ごしている。私ほどではないにしてもリモートワークに切り替わったり勤務時間が減らされたりで暇を持て余している人間がウジャウジャいるようだ。そのとばっちりをSNSはモロに受けているように思う。

 

これまでよりもSNSに張り付く人口が増え、またその内にとにかく何かに当たりたくて仕方がないような人種が多く含まれているからか些細なこと(と括ってしまうのはあまりにも意識が低すぎるのかもしれないが、私にとっては有名な高校生カップルの妊娠も芸能人の問題発言もどこか遠くの知らない出来事である)で炎上し、くだらないネタツイや自分の興味のある分野を流動的に観察しようと思って作ったTwitterのアカウントが次々と第三者に対する第三者によるお気持ち表明の場へと変わっていっている。インターネットで人が怒り狂っているさまを見るのはどこか見世物のような面白さがあるなとは思っているのだが、正直胃もたれ気味だ。

 

誰かの視線がある場所(しかし本人には届かないような場所)で仮想敵を作ってケチョンケチョンにするのはかなり楽しい。言葉を用いているぶん理性的に攻撃しているような気持ちになれるからだろうか。それが誰かに共感されると余計に自分のやっていることが正しいと錯覚してしまう。その敵が芸能人など影響力のある存在なら尚更だ。

前提として何が起きているかを多くの人が知っている状態で問題提起をすれば多くの人の目に触れ、また共感を得ることも比較的たやすいだろう(一部の層はそのご意見に対する反論を「アンチ」とみなし晒し上げることまで娯楽としているように思えるが)。

 

私もいわゆる鍵垢で「地雷」という仮想敵に対し言いたい放題に悪口というか罵詈雑言というかを浴びせているが、これが鍵垢のフォロワーにとっての恒例行事、ましてや私のアイデンティティのひとつになってはマズいなと思っている。

地雷を踏んで/踏まされてキレるのではなくキレるためにわざわざ地雷を踏みに行くようでは本末転倒もいいところだ。

正直オタク用語でいうところの地雷を踏んだからと言って原義の地雷と違って足がふっ飛ぶわけでも死ぬわけでもなく、スマホを閉じて深呼吸したあと部屋の掃除でもしていれば自然と落ち着くはずではあるのだが、お気持ち表明の楽しさを知っているのでそのまま鍵垢へと放流してしまっている。非常にタチが悪い。いつかやめなければなとは思っている。

 

しかし言い訳をするのなら私のお気持ち表明は「受け取る側が自分の意思で見る見ないを選べる場所」で「自分の身近な出来事」について行っているもので、端的に言えば「嫌なら見なけりゃいいじゃん」が可能なのである。本垢の透明度を上げるための下水処理施設のような役割を果たしてくれている。残念ながら今のところ私の精神環境はお世辞にも綺麗とは言えないので、浄水のようなオタクになれる日まで残念ながら鍵垢を手放すことはできなさそうである。

 

SNSで声高にお気持ち表明をしている人たちの生活が早く元通りになるか「嫌なら見なけりゃいいじゃん」の環境下でのお気持ち表明で妥協するようになることを祈っている。私も早く元のクソなインターネットライフを送りたいものである。