お気持ち表明について

新型コロナウイルスによる外出自粛で、学生でありかつそこまで生活に密着していない職種のアルバイトをしている私は学校もバイト先も早々に通常運転を中止しており、完全にひきこもりと言っていい状態で1ヶ月ほど過ごしている。私ほどではないにしてもリモートワークに切り替わったり勤務時間が減らされたりで暇を持て余している人間がウジャウジャいるようだ。そのとばっちりをSNSはモロに受けているように思う。

 

これまでよりもSNSに張り付く人口が増え、またその内にとにかく何かに当たりたくて仕方がないような人種が多く含まれているからか些細なこと(と括ってしまうのはあまりにも意識が低すぎるのかもしれないが、私にとっては有名な高校生カップルの妊娠も芸能人の問題発言もどこか遠くの知らない出来事である)で炎上し、くだらないネタツイや自分の興味のある分野を流動的に観察しようと思って作ったTwitterのアカウントが次々と第三者に対する第三者によるお気持ち表明の場へと変わっていっている。インターネットで人が怒り狂っているさまを見るのはどこか見世物のような面白さがあるなとは思っているのだが、正直胃もたれ気味だ。

 

誰かの視線がある場所(しかし本人には届かないような場所)で仮想敵を作ってケチョンケチョンにするのはかなり楽しい。言葉を用いているぶん理性的に攻撃しているような気持ちになれるからだろうか。それが誰かに共感されると余計に自分のやっていることが正しいと錯覚してしまう。その敵が芸能人など影響力のある存在なら尚更だ。

前提として何が起きているかを多くの人が知っている状態で問題提起をすれば多くの人の目に触れ、また共感を得ることも比較的たやすいだろう(一部の層はそのご意見に対する反論を「アンチ」とみなし晒し上げることまで娯楽としているように思えるが)。

 

私もいわゆる鍵垢で「地雷」という仮想敵に対し言いたい放題に悪口というか罵詈雑言というかを浴びせているが、これが鍵垢のフォロワーにとっての恒例行事、ましてや私のアイデンティティのひとつになってはマズいなと思っている。

地雷を踏んで/踏まされてキレるのではなくキレるためにわざわざ地雷を踏みに行くようでは本末転倒もいいところだ。

正直オタク用語でいうところの地雷を踏んだからと言って原義の地雷と違って足がふっ飛ぶわけでも死ぬわけでもなく、スマホを閉じて深呼吸したあと部屋の掃除でもしていれば自然と落ち着くはずではあるのだが、お気持ち表明の楽しさを知っているのでそのまま鍵垢へと放流してしまっている。非常にタチが悪い。いつかやめなければなとは思っている。

 

しかし言い訳をするのなら私のお気持ち表明は「受け取る側が自分の意思で見る見ないを選べる場所」で「自分の身近な出来事」について行っているもので、端的に言えば「嫌なら見なけりゃいいじゃん」が可能なのである。本垢の透明度を上げるための下水処理施設のような役割を果たしてくれている。残念ながら今のところ私の精神環境はお世辞にも綺麗とは言えないので、浄水のようなオタクになれる日まで残念ながら鍵垢を手放すことはできなさそうである。

 

SNSで声高にお気持ち表明をしている人たちの生活が早く元通りになるか「嫌なら見なけりゃいいじゃん」の環境下でのお気持ち表明で妥協するようになることを祈っている。私も早く元のクソなインターネットライフを送りたいものである。